競走馬の海外遠征1
外国の競馬は日本の競馬よりも出走制限はゆるく、外国の厩舎に所属していても多くの競走で出走できる。また、いくつかの競走では招待競走として、遠征費の負担も行ってくれた。
日本国内で調教された競走馬による海外遠征のうち、はっきりとした記録のある最古のものは、1909年(明治42年)のウラジオストック遠征である。前年に馬券が禁止されて意気消沈していた日本の競馬界に、ポーツマス条約による講和が成立した直後のロシアの競馬倶楽部から誘いがあり、帝室御賞典勝馬のスイテンを筆頭に50頭近くが大挙して遠征をした。日本国内の競走と同様、ほとんどの競走は日本産馬のみで行われたが、シベリア産やロシア産の馬との混合競走も行われ、スイテンは優勝戦でトップハンデでシベリア産馬に勝つなど、5戦5勝の遠征成績を収めた。ウラジオストックへの遠征はこれが最初で最後である。
太平洋戦争までは、朝鮮半島や台湾、満州でも競馬倶楽部が創設されて日本産の馬が出走したほか、大陸産(名目上は「日本国産」である)のサラブレッドやアラブ系種、さらには速歩用の馬が日本国内で出走していた。但し、海外遠征として特筆すべきものはない。
戦後最初の遠征は、1958年から1959年に掛けてハクチカラのアメリカ遠征である。1959年、ワシントンバースデーハンデキャップで初勝利。この際には保田隆芳騎手も一時期帯同して、保田騎手はこの際にモンキースタイルを習得してリーディングジョッキーの座を獲得。当時の日本の騎手は天神乗りが多かったが、保田騎手のモンキースタイルを真似て、日本でもモンキースタイルによる騎乗が主流となった。
その後、ワシントン国際招待ステークスに多くの馬が招待された、1962年のタカマガハラをはじめに多くの馬が挑戦したが、敗退の山を築いていった。
1966年から1967年にかけて、フジノオーがグランドナショナルを含む障害競走に出走し、2勝を収めた。